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帝国劇場ができるまで

「Endless SHOCK」初日おめでとうございます。

 

 突然ですが、私の好きな劇場ナンバーワンは帝国劇場です。帝劇をテーマにして卒論を書くか本気で悩んだ程度には帝国劇場が好きです。帝劇テーマのゼミレポートを2本書いたので、せっかくなので再構成して記事にしちゃいます。嗚呼、貧乏性。←

 

 

 帝劇では「Endless SHOCK」、「DREAM BOYS」、「ジャニーズワールド」、など、ジャニーズのオリジナル公演を毎年行っています。あの、素敵な空間に足しげく通っている方も多いと思います。もちろん、公演を楽しみにあの場所へ行くのが第1目的だとは思うのですが、この記事を読んで、あの帝国劇場という空間に宿る、独特の荘厳さ、クラシカルで落ち着きのあり、洗練されていて華やかな場内の雰囲気…歴史や背景についても目を向けて頂くきっかけになればな、という思いです。

 

 劇場厨を自称する、わたくし、おしのびが、一学生として調べ、いくつかの文献を参考にして、帝国劇場のあれそれをまとめたレポートを再構築しました。勉強不足の点や、間違った情報もあるかもしれませんが、目をつぶってそっと教えて頂ければ幸いです。

 

では参ります。

 

 

まずは基本情報。

 

【帝国劇場(Imperial Theatre)とは】

 東京都千代田区丸の内(皇居の前)に存在する劇場。お堀の真ん前。

 株式会社東宝の直営劇場で同社の中心的劇場。

 通称「帝劇」。座席数1897席。

 

 

【帝劇ができるまで】

 帝国劇場は2011年に100周年を迎えました。そう、1911年に公演を始めた、歴史ある劇場です。

 その起こりは、明治~大正時代の「日本の演劇の近代化」の話なしには語れません。まずは、その「演劇の近代化」が起こる前、江戸時代の演劇についてちょこっとご紹介します。

 

 

【江戸時代の演劇】(嶺1999:92-93)

 江戸時代、芝居(今でいう歌舞伎にあたるもの)は低俗・淫猥なものとして認識されていました。というのも、当時の舞台は親子で見るにも忍びないほどの猥褻な内容のものが展開されていたから…らしいです(逆に見てみたい←)。そのため、芸能に携わる者は「河原者(かわらもの)」、「制外者(にんがいもの)」と呼ばれて蔑視され、居住地も制限されていました。このことを端的に示したのが、18世紀後半を代表する歌舞伎役者・四代目市川団十郎の詠んだ句、「錦着て 畳の上の 乞食かな」だ、と言われています(徳永 2000:13-14)。現代で歌舞伎と言えば、ハイカルチャー・伝統芸能の代名詞的存在ですが、この時代では全くそうではなく、むしろ蔑視の対象となっていたのが興味深い点です。この頃の日本の芝居の低俗性は、外国人による日本見聞録にも記録があり、当時外国人の間でも広く一般的に認識されていた事項であると推測されています。

 

 

【江戸⇒明治の橋渡し、演劇改良運動】

 明治に入ると、明治政府の成立によって身分制の解体が起こります。これが、演劇世界の激変のきっかけとなりました。1871(明治4)年 賤称廃止令(=身分解放令)の発令によって、これまで居住地を制限され、蔑視されていた芸能者は、居住・職業の自由を得ました。また、非芸能者の家庭の者が芸能者になることも可能になりました。芸能に携わる人の門戸が開かれたわけです。しかし、依然として一般的な賤視は続きました(徳永 2000 :22)。

 この、世間が依然として持っていた芸能に対する負の認識を大きく変えたのが、「演劇改良運動」です。演劇改良運動は、身分制の解体と、教部省(宗教関係を管轄する明治政府の官庁)が示した新たな演劇統制項目3カ条「高尚・修身道徳・歴史教科書となる演劇」によって始まりました(徳永 2010:125)。この3カ条、現代風に言うなら「エロくてゲスい」内容だった江戸時代の演劇を改良して、「お上品で為になる」ものにしなさい、というような感じです。180度変えろって、割と無茶。明治政府がどうしてこんなことを言ったかというと、1つは、外国からの目が気になっていたから。1つは、江戸→明治の文化革命を庶民に印象づけるためです。江戸幕府は、芸能を弾圧傾向にあったので、明治政府はそれと逆の政策をとって、芸能面からも政権交代を印象付けようとしたのです。ただ、低俗で淫猥なものを放置するわけにもいかなかったので、1872(明治5)年、東京府が歌舞伎界の代表者を呼び出し、演劇(この時期では歌舞伎のことを指す)の改良、つまり歌舞伎の近代化をわざわざ、直接、指示したのでしょう。この「近代化」とは、先の3カ条「高尚・修身道徳・歴史教科書となる演劇」のことで、これが明治の芸能論の基本の軸となりました(嶺 1996:92-94)。

 1886(明治19)年には、海外留学帰りのエリート有志を中心に演劇改良会が結成され、この会の運動によって1887(明治20)年に天覧歌舞伎、つまり天皇の御前での歌舞伎披露が実現します。これ、実はすごいこと。天覧歌舞伎によって、民衆娯楽であった歌舞伎が、国劇*1としての正統性を明治政府に認められた、ということになりました。20年ちょっと前までは子どもに見せられないような内容だったものだったのに、改良を加えた(といってもどのような改良だったかは私にはわかりませんでしたが、けれど、どちらも演じている人は同じはず)ものを、天皇が観て、国の代表の文化として政府からのお墨付きをもらったという、歴史的な出来事だったのです(徳永 2010:123)。歌舞伎がハイカルチャーとして認識されるようになったきっかけは、ここにあるような気がします。

 

 

【演劇近代化の進行―帝国劇場設立の経緯】

 こうした状況の中で、1880年代から国立劇場設立の動きが起こり始めます(徳永 2010:123)。

 背景には、岩倉使節団他、欧米各国を視察した政府の要人たちの多くが経験した、外遊中に各国で招待されて観劇をした、という共通の体験がありました。

 では、なぜ各国は使節団を劇場に招待したのでしょうか?

 答えは、劇場が「政治的存在」だから、だそうです (神山 2009:293-294)。

現代では、劇場=エンターテイメント、のイメージが強いので、違和感がありますが、鹿鳴館を想像してもらうと、わかりやすいかもしれません。要するに、劇場は上層階級の社交場だったんですね。

 ①豪華壮麗な劇場に、国賓や使節を招くことは、国威や文運隆盛を誇示し、文化の成熟度を顕示する意味を持つ

    :ゴージャスな劇場に他国の偉いさんを招待して、「どや!うちの国、こんなすごい劇場持ってます!歌とか踊りとか、こんなレベルのものができる文化持ってます!」と自慢する。

 ②劇場の客席構造自体が、無言のうちに示す、社会の階層や「政治力学」を目で実感させる(例. ロイヤルボックス、入り口の分離)

    :ほんとに偉い人は特別室で観劇します。「あぁ、あそこの中にいるのは“スペシャル”な人なのか…」と観劇に来た人にヒエラルキーを嫌でも意識させます。

 ③「近代国家」のステータスである科学技術(テクノロジー)の提示

 

こうした経験から、使節団のメンバーは、「音楽や観劇は外交手段の一翼を担う」との認識を持つに至りました(嶺 1996:103)。

 日清・日露戦争が終わると、内地雑居*2が始まり、新興国・日本への世界的関心が高まり始めます。来日外国人が急増したことをきっかけに、国内で“日本は一等国として世界に認識されているのか”ということについて関心が集まり、その矛先は演劇にも向いた、と嶺(1996 :144)は指摘します。これを受けて、1906(明治39)年に伊藤博文首相による劇場創立への話し合いがなされ、翌1907(明治40)年には帝国劇場株式会社が発足しました。…そう、皆さんが義務教育で必ず習ったであろう、あの伊藤博文さんです。初代内閣総理大臣伊藤博文さん。帝国劇場は、当時の日本の政治トップである首相の主導によって作られた劇場なんです!これ、めっちゃ重要なポイント。

    ここで注目すべきは、伊藤博文首相が筆頭に劇場創立が話し合われたにも関わらず、“国営”ではなく“株式会社”つまり私企業として劇場設立計画が進んだ点です。この理由について、

 ①私企業として成立しそうな見通しが立っていた

 ②劇場建設を急ぐならば、国営より私企業の方が手っ取り早い

 ③戦争直後の国家的財政事情

という3点が関わっていたのではないかと嶺(1996:146)は指摘しています。結局カネなかったからかーい!というツッコミをせずにはいられません←

 補足として、国立での劇場設立が実現したのは1966年(昭和41)年の国立劇場で、これは歌舞伎・伝統芸能専用の劇場です。広く演劇一般及び、ミュージカルやバレエを興行できる新国立劇場が出来上がったのは、1997(平成9)年と、つい最近のことである。新国立劇場は、森田剛くんの舞台『ブエノスアイレス午前零時』でお邪魔した記憶…。

 また、この帝国劇場株式会社の設立には、もう1つ重要な特徴があります。それは、会社の幹部を政財界の重鎮で固め、興行界の者を劇場経営から完全に排除した点です。これがどれほど異例のことかは、永井龍男『石版 東京図絵』(中公文庫)の「渋沢栄一をはじめとして、当時一流の実業家がすべて、水商売といわれ、まともな者の手をだすものではないとされていた劇場役員として顔を連ねている」という一文からも、容易に推測ができます。…ここでまた、ジャニオタにおなじみの方が登場しました。「渋沢栄一」…最近聞いたような名前?と思った方もいるのでは?大正解です。NHKの朝ドラ「あさが来た」で「銀行の神様」と呼ばれ、主人公たちにアドバイスを送っているのが、この渋沢栄一さんです。今の朝ドラの描いている世界は、ちょうど帝劇ができる頃と同時代なんです!なんたる偶然!

 帝劇が創立された目的は、江戸時代の芝居に対する悪いイメージを払拭し、外国に恥じない劇芸術の本拠地を作ること、でした。江戸時代は劇場の運営は演者が行うものでしたが、マイナスイメージを払拭すると同時に、近代演劇の興行という新たな決意表明ために、劇場経営を芝居者の手から切り離して、政財界の重鎮が幹部を固めたのです(嶺 1996:31)。

では、一連の演劇の近代化と、帝国劇場の整備で、具体的に何が変わったのでしょう。

ここで、帝劇と近世の劇場で、変化した点をまとめてみました。

 

表:帝劇と近世の劇場の比較

(徳永 2000 P.42,6、嶺 1996 P.183を基に作成)

    帝劇

 

   近世の劇場

非演者、政財界の要人

 経営者

演者

前売り切符・指定制

 チケットの購入

芝居茶屋(※)を通じて買う

不可

 場内での飲食喫煙

低額

 価格

高額

短縮傾向

 上演時間

長時間

椅子席

 座席

桟敷席

 

 

※茶屋制度…客に代わって、入場券やお弁当など飲食の手配を引き受ける代行業。一般とは別の入り口から入場し、「出方」と呼ばれる案内役が席まで案内する。観劇中でもこの出方に頼めば、飲食物などを代わりに買って届けてくれる。茶屋でチケットを取る場合、日頃の付き合いやチップの弾み具合など、茶屋の一存で席が決められたので、良席で観劇するためには非常にお金がかかった。現在この制度は相撲観劇に一部残っている。

 

    今当たり前の制度、ほとんど明治に作られたんじゃん!ということがよくわかります。チケットの前売り制度も、座席指定制度も、椅子席での観劇も、飲食喫煙禁止も、全部ここから始まりました。現代の劇場で常識になっているこれらの劇場の様式は、1904(明治37)年の大阪・朝日座での改良が発端だったのですが、大劇場である帝劇で導入されたことによって日本の劇場のスタンダードになっていきました。

 

そして、1911(明治44)年3月4日 帝劇は杮(こけら)落としを迎えます。その後、戦争などで何度も公演を休止している期間はありましたが、近代から現代まで、途切れずに、日本の演劇を担った、現存する数少ない劇場の1つです。そして今日も、帝劇では、素晴らしい公演が行われたのでしょう。

ちなみに、帝劇ではほかにも新たな取り組みが行われました。1つは、女優の登用で、日本初の女優養成機関を開設しました。また、日本初の附属管弦楽部を持った劇場でもある。いわゆる「劇場お抱えの楽団」です。劇場に付随する、ソフト面も充実を図った、画期的な劇場であったといえます。

 

 

 

 

   以上、超ざっくりですが、帝国劇場ができるまで、をご紹介しました。

「帝国劇場」という名前を、仰々しいな、と思ったことがある人は少なくないと思います。が、内閣総理大臣主導で作られた劇場とあらば、納得してしまいますよね。笑

    こういった経緯で作られた劇場なので、帝国劇場の板の上に立つことは、舞台人の中である種のステータスのようになっているようです。だからこそ、毎年その場所で公演をかけてもらえることに感謝したいし、帝国劇場の板の上に立つこと許されたキャストに恥じないファンとして観劇したいものです。

 

 

Endless SHOCKのキャストの皆様、スタッフの皆様、怪我なく千穐楽まで完走できますように。

 

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【参考文献】

ところどころにある(名前 年号:数字)は参考にしたり引用したりした文献とページ数を示しています。

 

神山彰(2009)『近代演劇の水脈―歌舞伎と新劇の間』森話社、393頁

国技館サービス案内所(2014)「相撲案内所」            

 http://www.kokugikan.co.jp/annai.html  

帝国劇場公式HP(2014)「帝国劇場 IMPERIAL THEATRE」

http://www.tohostage.com/teigeki/index.php

帝国劇場公式HP(2014)「帝国劇場 座席表」

http://www.tohostage.com/teigeki/teigeki_zaseki.html  

徳永高志(2000)『劇場と演劇の文化経済学』芙蓉書房出版、111頁

徳永高志(2010)『公共文化施設の歴史と展望』晃洋出版、196頁

嶺隆(1996)『帝国劇場開幕 「今日は帝劇 明日は三越」』中公新書、320頁

*1:その国特有の伝統的な演劇。また、その国を代表する演劇。[「国劇」、 『日本国語大辞典』、 ジャパンナレッジ より引用]

*2:外国人居留区などの制限を取り払い、外国人が日本国内どこへでも居住・移動できるようになった状態